借耕牛 ー墓標から辿る、讃岐の稲作を支えた英雄ー

借耕牛・綾川町・冨田紀久子

讃岐の農業を250年に渡り支えた「牛」たち

皆さん、かつて、讃岐と阿波の間で行われていた、「借耕牛(かりこうし)」と呼ばれる商習慣をご存知でしょうか?

香川県畜産協会HPより


 
「カリコ」とは何ぞや?という方も多いと思います。
今回は、讃岐の農業を250年に渡り支えてくれた「牛」にまつわるお話です。

県道沿いにひっそりとたたずむ墓標

実は、以前から気になっていた遺跡が、私が住む綾川町内にあるのです。
それは、綾南地区から綾上地区へ抜ける県道17号線沿いにある、小さな墓標。

借耕牛 牛之墓

  

そう、「墓」とはっきり掘られているので、お墓と呼んで良いと思うんです。
しかも、誰のお墓かというと、「牛」。

  

借耕牛 牛の墓

  

「牛之墓」と掘られているからには、あのモーモー鳴く牛さんのお墓だと思っていたのですが、これまで確たる証拠や情報が得られず。

  

こういう時にいつも頼りにしている、地元のおばあちゃん達も知らない、とのこと。

  

それが、やっとこの日、その謎が解けたんです。
そう、じっちゃんの名にかけて・・・!(違う)

  

借耕牛の伝道師・冨田 紀久子さんの講演

この日、地元の方に教わって、聞きに高松まで行った講演会。
講師は、デザイナーで香川民族学会会員の冨田紀久子さん。

借耕牛 冨田紀久子さん

講演の第は「香川の繁栄を支えたヒーロー借耕牛(かりこうし)」。

   

その要点を、今回の主旨に沿ってご紹介すると次の通りです。

  • 借耕牛という、徳島から県境を越えて牛を借りてくる習慣があった
  • 移動中に動けなくなった牛は、首を何度も切って殺されていた
  • 実は、県内の至る所に借耕牛を弔った墓標がある

  

春と秋、米作りの忙しい繁忙期に、県境を超えた徳島から香川へ、農作業用の牛を借りて(連れて)来て、収穫したお米等と共に返す(連れて帰る)。そんな繋がりが両県にはあったんです。

 

借耕牛 冨田紀久子さん

 

そう、墓標にある「牛」とは、この徳島から借りて来た「借耕牛」のことだったのですね。

  

語るも悲しき、ふるさとにたどり着けぬ牛たちの悲運

特に、香川の稲作の繁忙期を支え、酷使された牛の中には、厳しい峠道を乗り越えることが出来ず、その場で処分される牛もあった。

借耕牛 牛之墓
冨田さん曰く「蓮華座の可愛い地蔵尊の存在感が、他に類を見ない」

 

牛を処分するのは大変で、首の辺りを何度も切っていたそうで・・・。牛の飼主にも連絡をし、処分された牛を、飼主がその地まで確認に来ていたそうです。

  

墓標は、ふるさとへの帰郷が叶わなかった、厳しい稲作農繁期を支え、働いてくれた牛達を思い、弔うために、その多くが倒れていった場所に建てられたのでしょう。

  

高飛峠 借耕牛 牛之墓
高飛峠から陶方面(南)を望む

 

そして・・・この墓標があるのは、ちょうど峠道の頂上付近。

  
高飛峠(たかとびとうげ)と呼ばれるこの峠道は、今は合併した中学校の通学路にもなり、通学中の子ども達がペダルを踏ん張って登る姿が見られます。そんな舗装路も、借耕牛が行列を成していた当時は、鬱蒼とした砂利道だったそうです。
    

今となっては、車ですんなり登り上げてしまうこの峠道を、疲労困憊の牛たちが、飼主の待つ故郷への道を懸命に登っていたことを思うと、隔世の感に堪えません。

 

そして、四本の桜に囲まれるような場所へと移設されたことに、今では語られることも少なくなったであろうこの墓標への、農家の方達が抱いた慕情の念を感じずにはいられません。

借耕牛 
四本の桜に囲まれるように佇む牛之墓

冨田さんの著書「あわ/さぬき 借耕牛探訪記」には、「借耕牛の聖地の1つ」と紹介される綾川町

こんな歴史の残り香が感じられる遺構が、まだ綾川町にはたくさんあるのです。多分。

 

【綾川町陶 地区】高飛峠付近、牛之墓の場所

 

  

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地元の田んぼで行われた神事「抜穂式」

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